ねじまき鳥クロニクル

この本は古本屋で適当に選んで買った。「村上春樹かぁ〜有名だし安くなってるし読んでみるか」そんな軽い気持ちで読み始めた。

全体として面白いことには、確かに面白い。

いや、面白いというよりも興味深いかな。このストーリー、全くもって摑みどころがないんだよね。主人公も、その妻も、近所の子供のメイも、間宮中佐に本田さんも。全てが朧げにストーリーを埋めている。

でも、そんな曖昧な中で生きるということについて様々な提議がされている。

悪意と善意。人に稀に起こる奇跡体験について。人間の信頼関係。

そう、関係性。いつもと違う妻の様子、そこからもう帰ってくることのない妻。

捜すために四苦八苦するも、前に進まない。

そんな中で本田さんから、ノモンハン体験を聞く。『皮剥ぎボリス』『光の洪水』。

人間は沢山の事を見落としがちだけど、それらの見落としていた物事一つ一つに関心を向けられるようになると、発見があり感覚が過敏になり新鮮な体験をできるだろう。でもその新鮮な体験が、良いものかと言ったらそれは一概に言えない。一概に言えないというよりも、良いと思ってもそれは全くの思い込みにすぎない。悪いことを認めたくなくて、良いことしか認めない。揚げの果てに悪いことを認めず、逆に良いものとして認知する。

これはつまり思い込み、そう、暗示でほぼ100パーセントうまくいくことになる。

 

それを否定して、俯瞰的立場で見てるような文章の書き方が村上春樹にはある。

そして、その要素が色濃く表れてるのがこの「ねじまき鳥クロニクル」だ。

 

音は風に乗って私の耳に吸収される。

太陽は光によって私の体に吸収される。

でもそれだけでしか、自然を感じることが出来ていない。

 

本田さんのノモンハンでの体験、

あの井戸の底では、本田さんを待つ人も居なければ本田さんが誰かを待つこともない。ただただ時間軸が横に進んで、自分の体力が下に落ちていく中で、太陽が一番高い位置に来た時だけ起る、光の洪水だけを渇望する。人はもはや関係ない。自然だけが、本田さんの存在を確かなものとしてくれてる。 

人には、喜怒哀楽なんてものがあるけれど本当の感情の源泉はもっと違うものなのではないか。もっと微妙なあまり違わないようだけれど、確かに違う、言葉にするのはまだ出来ない、何か。