これからのブログ事情

題名に書いた通り、今後のこのブログについて。

一日一回更新でやっていこうと考えていたけれど、3日に一回更新になりそうなので何か考えついたことがあったら、余計なことは考えずに更新していこうと思う。

 

電車に乗っているんだけれどおじいさんが凄いぶつかってくる。年とった人って、神経が鈍ってるのか?背中の神経が老いて、私にぶつかってるってことに気がつかないのかな。

まぁ、全然いいんだけどね。

ただ、いまの私は何かにもたれかからないと立ってられない程、疲労を感じてしまっているからこの場所は譲れないのである。ごめんねじいさんよ。

 

暖かいシャワーを浴びて、芳香良き石鹸で体を洗いふかふかすぎて沈みすぎるお布団、ないしベッドに横たわらせてくれないかなぁ、なんてね笑。

結局

毎日ブログを書こうと決めた直後からから早3日。

他人のブログのチェックは欠かさないのに、

どうも自分でブログを書くとなると忘れてしまう。

いかがなものか、俗にいうアウトプットなるものをしようと心がけてはいるものの難しいものだ。

そういえば昨日から1カ月半ぶりのアルバイトに復帰して本日二連勤目。

久しぶりの出勤で、しかも大変に後ろめたい気持ちを抑えてだったので緊張したけれどなんのこっちゃ、自分が思ってる程、他人は私に関心を持っていない。

この場合は、安心だが、それはそれでどうなのだろうとも思う。

働くことに何の抵抗も持たず生きていけてる人間様羨ましい。

もう私に何の未来もない笑

とりあえず資格だけは取らなければ。

 

 

 

 

今の今まで

前回このブログを更新してからはや2カ月もたってしまった。

やろうやろう、書こう書こうと思っても中々続かないものである。

というか、「やろう!」と思ったことが実行できた試しがないしこのまま死んでいきそう。

気づいたら出来てた、じゃないと遂行することが出来ないのはもうどうしようもないかな。

話は変わるがやはり言葉というのは面白いものだ。組み合わせ次第で相手への伝わり方が様々変化するし、一人一人受け取り方が違う。

同じ言葉を複数の人に語りかけても、十人十色だな。

面白い。

家族がいて、友達がいて、仕事先の人がいて。

でも、それぞれ他人であり自分ではない。

何を考えてるかなんてわからないし、そもそもわかりたいとも思わないけれど皆んな何かを伝えたがっている。

それは何だろう。。。

何だろう。。。

 

映画鑑賞

今日は神宮前にある小劇場で映画を見てきた。
題名はこうである。
『消えた画 クメール・ルージュの真実』
カンボジアの政治家であるポルポトが1973年から始めた独裁国家、その名もクメール・ルージュ
そのクメール・ルージュの時代を生きたカンボジア人の久郷ポンナレットさんを軸に、この映画は作られた。

見終わった後、後ろの人が会話してるのが聞こえた。「他人事とは思えない。」
その言葉について、私は正反対の事を思った。
他人事のような、なんだか掴めない。映像を見て、悲惨で苦痛を伴う恐怖政治はなんだか信じられなかった。わかったふりをしたところでどうなるのだろうか、やはり人は直接自分の目で見たものしか本当の意味では確信をもつことはできないのではないか?そして、自身が被害者になった時、初めて今まで行ってきた立場は加害者であるという事に気付くはずだ。
人づてに聞いた話だけでは無理がある。
私の隣に座っていた人は逆に、ポンナレットさんがこの映画を作るに際してカンボジアへ戻らなければならないが、色々と問題がある為に先に現地を調査しに行ったという。あまり喋ってはいなかったが、少しの言葉にも説得力があった。
やはり自分の目というフィルターを通してでなければ見えないものがあるし、気付けないこともある。

行動を起こすことの難しさ、久郷さんの忍耐強さ、正義感を学べたしやはり世の中のほとんどは綺麗事では済まされないことばかりだと感じた。

本日

今日も2限には遅刻してしまった。
間に合う時間に起きたのに髪の毛を巻くという、しなくてもいいことしたがために時間を取られてしまった。
来週からは友人がその授業にでなくなるので命がけでいかなければならない。
元々友人に頼りすぎている部分が多くあったため、これを機に自立しなければ。
こんな理由で自立するのはあまりいいものではない。自分がいかに他の人に頼りきっていきているのがわかる。
人間は助け合わなければ生きてゆくことはできない。しかし、助けてもらうことを前提にして生きていって絶対にならない。
何故なら、助けてもらう行為に依存して自分から行動する機会減らしてしまうことになるからだ。
これは僅かずつだが人格が歪んでいく1つのポイントになる。
自分で最善を尽くした結果、至らない部分があった場合のみに情の頼みとしてお願い事はする。

そのあとは久しぶりにサークルのホールへ。
久しぶりすぎて中々、何を話せばいいのかわからない。みんな話すことがあるのだろうか?
案外ないとみた。
もう聞き尽くしたことを再度聞くのも気がしれているし、やはりあまり仲がよくない人間とのコミュニケーションを図るのは難しいことだ。
まだまだ、精進する余地はある。
また、周りの人がインターンについて余りにも楽観的すぎて見ていて心配になった。
インターンに行った人が「行かなくても大丈夫。」というのと、聞いただけで実際に行ってない人が「大丈夫。」というのとでは全くもって意味が違ってくる。
些か不安である。

外側の世界を見ることはとても大事だと思います。
刺激的な人が沢山いて、刺激的なものが沢山あって。
それを真似するようにしていくとなんだか成長したようなそうでないような。
いまの日本は空回り。やることをすっ飛ばして金だ金だ。言っている。

内側に目を向けてみる。
児童虐待、介護問題、老人ばかりの過疎地域、
地震により被害を被った場所に住む可哀想な人達。

就職がなんだなんだ。どうしよう。
そんな悩みはちっぽけなんだ。
死のギリギリまで精神を切り詰めて、瀕死の状態でなんとかやっていってるみんな。そんな人達を救うためにはどうすればいいのかな?

子は産む親を選べない。選べなかった結果、最悪な親の元で満足にご飯も食べれず殴られ蹴られて死んでいく子供達。
生きるべき、子供達を闇に葬った。
そんな子供達が多い。まずは日本の子供達を。

壮絶な介護の末、とうとう我慢の出来なくなった夫は妻を自らの手で殺す。安楽死か、尊厳死か。こんな悲しい結末はいいのか。

日本中の人が、自分の私利私欲の為に使っているお金、体力、時間、能力を誰か他のために使えたのら。全員が使えたのなら。被災地の人々の苦しみが取れるのではないか。この日本は素晴らしいと涙を流せるだろうが、いまのままではむりだ。

自分という存在を誰かのために、少しでいいから使ってほしい。

この願いを成就させて、私の望む未来へと紡がせる為に必要なのはただひとつ。
意志の強さ。
気高く強き願いは必ず現実になる。